あつこの闘病体験記
笑う門に福が来る

1.入退院生活の始まり

1993年、23歳の時に第二子となる長女を出産。
この妊娠中に強い咳が出るようになる。
おなかが大きくなっていくごとに、咳は強くなっていく。
そんな中、「産めば治る」そう思っていた。
出産した日も・・・その次の日もその次の日も・・・気がつけば、毎晩強い咳で眠れなくなっていた。

それが、喘息発作とは知らなかった。

産後2ヶ月経った頃、インフルエンザにかかった時に、チアノーゼがでるような、呼吸困難で大発作。
吸っても吐けないような呼吸・・・。
意識が遠くなる・・・。
その発作が初めて恐怖になった発作。

その時、まだ長女2ヶ月。
長男2歳。
それからの人生、入退院の繰り返し。

初めのキッカケは喘息発作での入退院。
私の場合発作が出ると、ちょっとしつこい発作だった。
入退院を繰り返す中、やむを得ず、ステロイド薬を投与することに。
嘘のように喘息発作がラクになる。
でも、しばらくすると、ステロイドの副作用に苦しむように。

どんどん、精神的にもしんどくなる。
まだまだ小さい子どもたちを育てていくことができるかの不安も。
今で言う、パニック。
喘息発作が出る度、この発作で死ぬのかな・・・・と思うくらい呼吸がしんどい。

お風呂にも一人で入れない。
トイレも扉を空けていないと怖い。
部屋の真ん中にいれなくなる。
とにかく不安と怖さがおさまらない。
部屋の隅っこで、何かにもたれていないと怖い。
自分で自分のコントロールが完全に出来なくなる。

そういう精神状態になった生活に。
安定剤が手放せなくなる。

2.蓄膿の手術

その中でも入退院を繰り返す状態。
そんなある日、蓄膿が進んで頭痛があったため、処方された痛み止めを服用。
服用した痛み止めの薬でアレルギー症状が起こり、そのまま入院になった。

入院時に、回復の兆しが。
鼻の手術をすると、喘息の発作が軽減されるかもしれない。
と言われ、手術をすることに。

薬のアレルギーもでたことと、喘息発作がひどかったので、内科の先生が
「鼻の手術には僕が立ち会うから安心して」
と万全の体制で行ってくれたことで、そのときの私の大きな不安に寄り添ってくれる。
それがどんなに病気を持っている人にとって、大切なことで、大きな励みになることなのかを知ることができた。
心強かった。
手術室の中でも始まる寸前まで、話しかけてくれたことも、今でもすぐに思い出せるくらい本当にありがたかった。

この時、私は25歳だった。

当時の蓄膿の手術は歯ぐきから顔をめくっての手術。
また、これが局部麻酔でおこなっていた。
しかも・・・片方ずつ。

まずは右の鼻から。

手術中の音も全部聞こえる。
まるで、大工工事のような手術。

膿を通すために、骨をあける。
そして、ボロンボロンボロンと、ポリープを削っていく音も全部聞こえてくる。
手術中に私の好きなCDを流してあげるからと持参するも小さな音。
でも、流れてくる曲が私の鼻の工事音を少しでもなごましてくれた。

手術が終わった後のガーゼ交換はかなり辛かった。
病室から呼ばれていくと、看護婦さんに背後からガッツリ羽交い絞め状態に。
先生が鼻のガーゼを引っ張るときに、鼻の奥でガーゼが巻いているのが分かる。
そんな中、先生がガーゼを引っ張る。
とともに、受け皿にジャーっと血が・・・・。
意識がふ~っとなる感じを耐えながらの処置。

これが終わると次は左側の手術からまた始まる。

当時の蓄膿の手術はそんな感じだった。
痛みというより、グロテスク。
本当に耐えられない痛みを我慢した後は、発作も軽くなる。
が・・・・すぐに再発。

3.私はいつもトラブルタイプ

次の手術の時は、先生が
「黒田さん、手術もだいぶ進歩したんですよ」と言ってくれた。

内視鏡でできるようになった。
が、局部麻酔で片方ずつ。


私はいつも何かしらトラブルタイプ。


人間の体はすごくて、血管を自分でつくれる。
私の鼻の奥には、先生が想像もしていないところに大きな血管ができていた。

内視鏡手術時に、その血管にふれる。

お茶をゴクゴク飲んでいるかのような勢いで、血がのどに流れてくる。
血圧もどんどん下がってくる。
途中で手術が中断・・・。
ということもあった。


何か怖いことを通らないと、私の人生は上手くいかないの?
心が折れそうになる・・・。
そして、鼻が再発し、手術を繰り返す。
こんなに手術を繰り返しているのに、またすぐポリープができる。


そんな治療を繰り返しながら、数年経った頃。
全身麻酔で両鼻一気に蓄膿手術できるようになる。

手術のしんどさはかなり軽減され、入院の日数も短くなるし、医学の進歩を実感。
しかし、ガーゼ交換の辛さは相変わらず。

首から上の手術はしんどいと聞いていたけれど、何度やっても、慣れることはない。
その手術を13年の間で合計7回受ける。

4.まさかの・・・難病の発覚

それでも、再発はする。

通常、蓄膿の手術は1度やると10年は再発はないとのこと。
私の場合・・・・「なんでやろう????」と、耳鼻科の先生も首をかしげるほど。


喘息や蓄膿の手術を繰り返すけれど、治らないので、民間療法にも頼るように。
西洋医学も、もちろん必須だけれども、東洋医学にも出会う。
東洋医学の先生に出会ったときに、「脳のMRIをとってきて」と言われる。

何で???
と思いながらも、MRIを撮りにいくと、脳腫瘍がみつかる。
それが今の難病。


「アクロメガリー」


脳の一番中枢のど真ん中に、下垂体という臓器がある。
それが、ホルモンの伝達司令塔。

その司令塔のところに、脳腫瘍ができていた。
幸いにも、良性の腫瘍とのこと。
ほぼ悪性化することはないと言われる。
ただ、この腫瘍のできる場所によって、ホルモンの伝達機能を狂わせてしまう。

私の場合は、成長ホルモンを出すところと、おっぱいを出すところに指令する所に腫瘍ができていた。
それによって、ずっと成長ホルモンが出続けている状態に。


成長ホルモンが出続ける。と言うことは、
骨を成長させる。
顔の骨格も成長させる。
下あごが前にでる。
鼻、舌、心臓、臓器、手足を大きくさせてしまう。

これが、末端肥大症(アクロメガリー)と言われている病気。
別名、顔の変わる病気。とも言われている。

この病気の何がダメなのかというのは、
先生に聞くところ・・・・
「成長ホルモンを出すという事は、いろんなものを成長させてしまう。
だから、できものも成長させてしまう。」
とのこと。
それで、蓄膿が何度も再発していたことが分かった。


それが38歳の時。


この時に、ようやく今までの再発の原因を知り、納得する。
その当時はまだ、この病気が難病指定がされていなかった。
この治療を受けるも、その当時はデータがなかった。
頭の腫瘍を取り除く手術ができる先生も、東京女子医大の先生しかいなかった。
そして、頭の腫瘍を取り除くことでどうなるのかのデーターもなかった。

だけれども、体の中で成長ホルモンが出続ける状態は良くない。
いろんなリスクが伴うから、手術をやれと言われる。


しかし、治療にすごくお金がかかる。
データもない。


当時、先生に
「成長ホルモンにおける症状があることで、高血圧や心臓肥大になり、生死にかかわります。
大腸にポリープができやすくなる。
このポリープが成長することでガン化しやすくなる。
大体、寿命が短くなります。
それと、糖尿にもなりやすいです。」
と言う合併症の説明を聞く。

「数値を定期的に観察していかないといけないですね。」
と言われ今に至る。

いろんなことを先生に言われたけれど・・・・・
簡単にいうと
「長生きはできません」
と先生に言われた。

そこで、先生に、
「まって、先生。
それ聞いて、がんばりますって言えません。
脳の手術もデーターもない、先生も東京にしかいない。
手術したからと言ってもどうなるかもわからない。
患者さんに希望を与えるのも先生の役割ですよね。
それを言われる私の立場にたってみて??」

と、当時の私はお医者さんに刃向かってしまう。

お医者さんは治そうと思って、私の為に言ってくれていること・・・
と、受け取れる余裕はそのときの私にはなかった。


現在は手術できる先生も増え、手術を受ける患者さんもいる。
この手術は内視鏡で鼻から鼻の奥にメスを入れ、脳下垂体にとどかせ腫瘍摘出する術式のようで、私の場合、蓄膿の菌が、鼻に充満していることから、リスクが高くなると言われる。
余計に挑める勇気がわかず、現在も悩み中。

5.さらなる病が・・・

民間療法の先生が私の病気を見つけてくれた。
その時に大腸がんの病気も見つかった。

初めて難病というのが、大腸がんを通して、初めて分かった。
難病は今日明日どうにかなるものではないので、まずは大腸がんの治療をすることに。

大腸がんをみつけてくれた病院に検査に。
はじめての大腸カメラ。
ポリープ4つ。
そのうち2つはそのときにとれる物だったけれど、あとの2つのポリープが大きいので手術になります。と。
そのポリープ2つの組織をとった結果、
「大腸がんです」と、がん宣告を受けた。
涙がポロポロ。。。

そこで先生に、
「先生、私・・・治る?」
と聞くと、先生が
「今はまだ初期だと思うからがんばろう!」
と答えてくれた。
心強かった。

「先生ありがとう」
となって、さぁ、今から病気に挑もう!
と気持ちが決まり、手術のための術前の検査を受ける。

術前検査の中で、麻酔科で、気道確保するための検査を受けるために、CT検査を受ける。
その際に、気管が腫瘍に圧迫されて、気道が変形していることがわかる。
空気の通り道の空洞が、その腫瘍に押されて数ミリ程度。
これ以上腫瘍に圧迫されたら、息することも大変な状態。
下手すれば窒息。

その原因が甲状腺。
甲状腺がアクロメガリーで成長してしまい、甲状腺の下にゴルフボール大ぐらいの腫瘍ができていた。
それが気道を圧迫していた。


それがわかったことで、大腸がんの手術も後回しに。
甲状腺の腫瘍の治療を優先。
幸いにも、腫瘍は良性。
ただ、この手術は大学病院でないとできないとのことで、大学病院を紹介される。

この状態が大学病院でも症例がほぼない。
検査に半年くらいかかる。


その間、大腸がんの進行も心配に。
検査をしていくにつれて、手術がたいそうになることがわかる。
手術が上手くいけば切除だけですむけれど、とれない場合は心臓を止めて、人口心肺をつけて、肋骨を割っての手術になると言われる。
人工心肺は生き延びるためのものだけれど、術後はとっても大変とのリスクを聞く。

声もあきらめてください。
声帯をきることになるかもしれません。と言われる。
もし、声帯を切ることになったら、また、先に声帯をつなげる手術をする。
それでも声は小さい声になる。
シャガレ声までしか戻らない。との説明だった。

6.人の想いがエネルギーに

本当にどん底な状態だった。
私・・・どうなるんやろ・・・。
いくつ乗り越えたら、私、元気になれるんやろう。
心がポキポキ折れそうになる。

でも、子どもがいてくれたことで頑張れた。
子どものことを思うと、病気になったのは私で良かったと思えた。

この子達のお母ちゃんは私しかいない!
早く逝くわけにはいかない。
息子にも娘にも、やってあげたいことがいっぱいある。
子どもたちが、早くしてお母ちゃんがいない人生になるのは嫌だ!
と思って、何が何でも頑張ろうと思えた。
これまでの手術の時、パンツや術着の中に子どもの写真を忍ばせて手術に挑んできた。
そうすることで、私の「がんばるぞエネルギー」が強くなれたから。
子どもの存在にエネルギーをたくさんもらえた。

カウンセリングの仕事もしていたので、お客様からの励ましの声もたくさんいただいた。
心から心配してくれる友人もいてくれた。
それも大きな大きなエネルギーになった。

声がなくなっても、筆談でもできる。
どうなっても、頑張るしかない!
と思い手術へ。

目が覚めた時はICUに。
先生が
「くろださん、奇跡がおきたよ」
と言ってくれた。
「声帯も切らずにすんだよ」と言われた。
最悪の状態にならなくて
「奇跡がおきたよ」と言われた言葉が、ずっと心に残っていた。

それ以来、お医者さんってすごいなって思うように。

だからこそ、お医者さんの治療のあり方や薬などを「よくないもの」ととらえるのは、違うと思うようになる。
お医者さんに自分は助けてもらっている。
お医者さんが絶対正しいとか、逆に、薬や治療でおかしくなるなど偏るのもよくない。
大事なのはバランス。
民間療法や東洋医学の良いところ、西洋医学、療養の良いところを取り入れ、心をおだやかに過ごすことが大切。
という意見を持つようになる。


この2カ月後に大腸がんの手術をすることに。
症状は粘血便。
1週間で5キロくらい痩せる。
おかしいな・・・と思っての受診。

上行結腸がんだったので、腸を20センチ、腹腔鏡の手術で取り除いた。
これを病理に出した結果、ステージ1だった。

先生によると、
「粘血便の症状でステージ1はちょっと考えられないな。」
と言っていた。
「あぁ、私って守ってもらえているな」
その瞬間、私はそう思った。

甲状腺にしても、この時の大腸がんにしても、いろいろ気はもめたけど、結果最小限でいけた。


自分の病気を通して、私に関わってくれたお医者さんや看護師さん。
私のことを心から心配し、気にかけ、全快を願いエールを送ってくれる人達は皆、生き神様。
本気で私を必要としてくれる、我が子の存在。
生きた神様の言霊で、すごくエネルギーをもらった。

人が人を想う気持ちって、すごいエネルギーになるということを知った。
そして、カウンセリングの仕事をしていてよかった。と思わせてもらえることもたくさんあった。

それで、がんの手術も終わった。
ステージ1でも病名が「がん」だったので、経過観察があった。

一方、アクロメガリーの方は、成長ホルモンの数値をおちつかせてくれる為の注射があるとのこと。
ただ、手術をした人の術後使用する注射なので、効くか効かないかはわからない。
1ヶ月に1度、お尻に打つ注射。
当時まだ保険がきかないため、なんと1本20万円。
それを2本・・・・40万円。
高額なこともあり、治療はしなかった。

7.人との出会いが更に頑張るれる力に

2012年、おかあちゃんが亡くなって1年すこし経ったころ。
大腸がんから4年が経って、5年目。
この年の検査でOKだったら、大腸がんはほぼ完治って言ってもらえるなぁ。
と、がんの経過観察をしていたところ、子宮からの出血が続いた。

初めは軽い出血だったので、軽視していたけれど、だんだん出血量が増え、貧血をおこすまでに。
お客様のカウンセリング後
「今日はお越しい頂いてありがとうございました。」
と立ったときに、まるでおもらしをしているかのような大量出血。
この時に危機を感じて病院に。

初めは、
「不正出血はよくあることだから」
と言ってくださっていた先生も診察するにつれ、顔色が変わっていく。
そこで、子宮がんが見つかり、再度婦人科に。
検査の結果、転移もなかったことから、手術できることに。


ただ、手術をするのに、舌も大きくなってきて、アクロメガリーの先生とも色々相談しながらの手術になるからと・・・仕方なくアクロメガリーの受診をした。

そこで、先生からアクロメガリーの難病指定の認定がおりたことを聞く。
それをキッカケに難病指定の手続きを。

子宮がんの治療と、アクロメガリーの治療を同時に始めることに。
注射治療を初めることにしたけれど、手術は拒否する気持ちに今も寄り添ってもらっている。


子宮がんは手術して、すべて取り除くことができた。
病理にだしたら、70数個とったリンパせつの中に転移が1つだけあったのと、私のがんの質が悪い物だった。
「顔つきの悪いがん」と先生は言っていた。
転移がなくても、この顔つきの悪いがんの人には、抗がん剤が必要とのこと。
このカンファレンスも恐かった。
ステージⅢaとのことだった。
その後、抗がん剤治療を6クール。始めることに。


今まで、大腸がんもこわかったけれど、
子宮がんによって、メンタルが本当に落ちた。

自分のカラダはどうなっているんだろう?
自分は病気にならないといけない運命なんだろうか?
元気な自分じゃダメなんだろうか?

そんな風に思ってしまう時もあった。


それでも、入院すると、自分より病状の重い人が笑顔でいてたりする。
その人もいろんな不安や恐怖があったはず・・・。
でも乗り越え前を向いてがんばってはる。
「私、なにしているんだろ?こんなことで落ち込んでいる場合じゃないわ」
と同じ患者さんに強く励ましてもらえた。

いろいろ乗り越えている人に出会うことで、前向きに頑張れるように息を吹き返させてもらい、抗がん剤治療も頑張れた。
友達もいっぱいよりそって励ましてくれる。
お客様からも励まし応援してくれる想いを、メールや言葉がけでたくさん頂いた。
息子も娘も明るく毎日振る舞い、時折「がんばろな」と言葉をかけてくれる。
皆、本当に良くしてくれた。

そのおかげで明るく乗り越えられた。
治療や副作用はつらかったけど、「私は幸せ者やなぁ」と思わせてもらえた。

8.長男の成長

長男が高2の時に、私は大腸がんになった。
その時、娘は中3。受験生だった。
その後、長男が急に男らしくなったと感じた。

そして、息子が高3。
彼は、小3から野球を始め、高校も野球で進学し、野球一筋の生活だった。
そんな彼の就職決まったころ。
野球を夏に引退し、卒業するまでの間の長い期間にだれたらダメなので、野球部の生徒は、学校からOBさんの会社にアルバイトをさせてもらえた。
アルバイトに行っている時に、頑張っていた野球から離れて、ちょっと家族を顧みれた時間だったんだろう。

息子は高校卒業の時、学校で答辞を読んで、家族のことも話してくれた。

そんな卒業式の後、
「ちょっと二人だけでご飯食べにいこうや」
と誘われた。


私の大腸がんの手術の頃、私のおかあちゃんの体調が悪くなった。
一命を取り留めて帰ってきたおかあちゃん。
帰ってきたときは寝たきりのおかあちゃん。
だからこそ、できる限り介護がしたくなった。
もっともっと関わりたくなった。
そこで、実家の近くに引っ越ししたいと思うように。

長男は社会人に、長女は高校2年生になる頃。
子どもたちも、おかあちゃんの介護の為の引っ越しを快諾。
だんなさんも快諾してくれた。
4人で暮らせる家をさがしていた。


そんなときに、息子と二人での食事。
「妹なしで、2人で行きたい」
という息子の言葉に、
就職嫌とか言いだすんちゃうかな?と思い、長男に、
「ちょっと待ってわかってんの?就職はどんだけの人が関わってくれたと思ってるの?」
と言ったら、
「わかってる、わかってる」
と答える長男。

お店についてテーブルに座るやいなや
「なぁ、オレん家の家計って今誰が中心にやってんの?」
と聞いてきた長男。
「どうしたん?何感じてるの?」
と聞いたら
「パパを感じない」
と答えた長男。

「何を感じてんの???」
と思いながら、野球から自分が働くって言う目線になって、男目線で色々感じるようになったのかな?
とその瞬間思った。
どうやって生計ってなりたってんのかな?って興味を持つようになってきた年頃なのかな?
それだとしても・・・・
何かを感じている息子に嘘をつくのも違う気がした私は、言葉を選びながら今の状況を説明した。

9.別れの決意

それまでいろんな病気もありながらも、カウンセリングを仕事として始めてからありがたいことに、忙しくなってきた頃だった。
そんな中、だんなさんの仕事が下火になっていた。
これまで、だんなさんが稼いでくれていたことで生活ができていた。
私の病院療養中もだんなさんが働いていてくれたから、生活が成り立っていた。
元気になったらお返ししようと思っていた。
だからこの時の状況を、私はストレスと感じていなかった。
でも、息子は何かを感じている様子。

「これまでは、パパが頑張ってくれてた。
でも今はいろんな事情でこうなっていっている。
今は、私の仕事が忙しくなってきていて、なんとか生活は成り立っている。
でも・・・なんでそんなこと思ったの?」
と、長男に聞いたら
「もうしんどないか?」
と言ってきた。

「俺らの為にがんばってんねんやったら、もう、俺ら3人で家を出よう」
と答えた長男。

だんなさんは優しい人だったけれど、心から頼れる人ではなかった。
だんなさんの優しさに救われたこともいっぱいある。
だけど、いつの間にか私の日常の精神状態は、常に私がしっかりしておかなきゃと思う毎日になっていた。
そんなことも息子は感じていたのだと思った。
・・・そう感じさせてしまっていたのだろう。

ただ・・・・息子からみたら、
「妹はパパっ子に見える。妹もまだ、高校生だし、今後、美容の方に進みたいとも言っている。
妹のことだけはちゃんとやってあげて欲しい。
これからは自分も働くから、生活費も家にいれるから、おばあちゃんの介護も含めて一緒にやっていこう」
と言ってくれた長男。

その言葉を聞いて、私は18歳の息子に、何を言わしてんねんやろ?
この子は、何を感じてきたのやろう?と思うのと同時に
「いいの?パパと離れても」という思いもこみ上げてきた。

その思いに気づいた時、だんなさんと離れたかったんだという自分の気持ちに気がついた。

「俺らは俺らでパパとの関係は俺らが作っていくから、あっちゃんは、体もこんなんやし・・・・
あっちゃんの病気の時に、パパは家族じゃなかった。そこが致命的やったかな。」
と長男に言われる。

18歳の息子にこんなことを言わせていることで、
「私、本当に変わらないと!!!」
と思い、離婚を選び、話し合い、息子・娘・私の3人で家を出た。

10.旦那さんへの感謝。そして、おかあちゃんの死・・・

3人で家を出て、私は毎日のカウンセリングのお仕事と、おかあちゃんの介護。
息子は社会人2年生、娘は高3に。
新しい生活が始まり、それなりに楽しく過ごしていた。

2012年春頃、ある日突然、内容証明が送られてきて、数千万円という借金がくる。
だんなさんが借金を押しつけて逃げてしまった。
「どうしよう・・・・」
そんな中、手を差し伸べて前向きにアドバイスや力を貸してくれる人もいた。
本当にありがたかった。
そんな時にも長男は、私と一緒に弁護士と向き合ってくれて、どのようにしたら良いのかを一緒に考えやってくれた。

その後・・・
長男が会社を3年勤めた頃、
「とりあえず3人で住める家も確保できるし、月額の負担も落とせるし。」
と住宅ローンを組んでくれた息子。
妹と私を守る為に、できることを一生懸命やってくれた。
妹はそんなお兄ちゃんが大好きで、お兄ちゃんの話やアドバイスを素直に聞き入れ、又、自分の将来の相談事もお兄ちゃんの意見を聞き決断していた。
私はそんな2人と一緒に居る時間がとても幸せに感じている。
息子が購入したマンションができあがるのを、当時、生前のおかあちゃんは楽しみにしていた。


同年10月。
私が幼いころから、それまで実家に何もかもおんぶに抱っこだった姉が、実家の会社のお金を持ち、男と逃げた。
それから私は、日々のお仕事、おかあちゃんの介護、甥のこともしながらの生活になる。

12月後半に入った頃、マンション引っ越しの日、おかあちゃん危篤状態。
その3日後の大晦日・・・おかあちゃんは亡くなった。


私は、元の旦那さんに怒りや憎しみなんて1ミリもない。
むしろこの人やったから、と思えることがたくさんある。。
ただ、お互い21歳で親になり、人としてもっと一緒に成長し合える関係になりたかった。

息子や娘にとっての父親は彼しかいない。
現実や責任から逃げる姿ではなく、たくましい背中をみせてあげてほしかった。

でも、子どもたちが良い子に育って、そんな子どもたちを授かれたのは、この旦那さんだったから。
なので、元旦那さんにも感謝している。
それと、病気ばかりしていたことを申し訳なく思っている。

11.自分の役割

泣いていても病気は治ってくれない。
「笑う門には福来たる。」
この言葉が好きになったのも、病気のおかげ。

私が落ち込んでいたら、子どもたちも悲しむし、不安にさせる。
・・・誰も幸せにならない。
だからこそ、自分が前向きに挑んでいないと、
「あっちゃんは、いろんな病気やったけど、前向きに挑んでたな」
っていう姿勢をみせることも、自分の役割だなと思うと、また、頑張れた。

病気を通して感じることのできたこと
与えてもらえたこと
無償の愛情
手放したもの・・・。

このたくさんの気づきと、私に関わってくれた人たちのおかげで乗り越えてこれた。


抗がん剤が終わった後の、病気が再発しやすい時期もこえることができてやっと、5年たち、
「1つの大きな山を越えることができましたね。」
と婦人科のドクターに行ってもらえた。
その時、「わぁ、私、また、命拾いさせてもらえた」と思ったと同時に、
「なにかまだ、自分に役割があるんだろうな」
と思うように。

療養中の時、生きる・死ぬの不安があったとき、自分の役割が終わっていたとしたら、お迎えがくるんだろうけれど、まだ、役割があるとしたら生かされると、自分に言い聞かせていたから。

12.姉との確執

そんな元旦那さんとのやりとりが2012年の年明けてすぐの事。
そしてその春ごろ、旦那さん逃げる。
その10月、姉も男と逃げる。
そして、同年12月31日、私のおかあちゃんは亡くなった。
てんやわんやの2012年。。。
私の実家もいろいろある。

私が幼い時から、お金と女で、母親を裏切っては開き直り、すり替えていく父親。
人生やることなすこと全てに、親をからめて生きてきた姉は、母親の余命を知りながら、母親の会社のお金を持ち、職の決まっていない息子と、学生の息子を私たちにおしつけて、男と逃げた。
その2か月後に母親は他界。

姉は、葬儀にも来なかった。
その理由は「呼んでもらっていないから」と言っていると、甥たちから聞く。
それでも、それからも姉の行動はまだまだある。

私が幼いころから感じていた父親の人格には思うところは色々あるが、母親と父親は夫婦関係。
別れを選ばずきたのも母親。
夫婦関係とまだ割り切れる。
姉は・・・人として終わっている。
「将来、私の面倒を見てくれるから」
と、我が子である姉にいっぱいつくしていた母親を、こんな形で裏切った姉に今の私は情などわいてこない。

こんなゴタゴタも息子と娘は見ている。

13.笑う門には福が来る

病気もしかり。
うちの実家の裏切りもしかり。
旦那さんのこともあり、息子や娘の存在、愛情、エール。
私の病気のことを本気で心配してくれた友達やお客様。
自分しか愛せない父と姉・・・。

この色んな人たちの、良いも悪いも自分なりに体感していく中で
「自分だけの成功ありきだと楽しくないし、自分のことをホントに信じて本気で関わってきてくれる人とは、本当に喜べる方向性になるために頑張れる。」
と強く思うように。


2020年、株式会社kanOw設立時、50歳の私。
私が自分の仕事を生きがいにしていることで安心感も感じたいし、子どもたちにも感じて欲しい。

  • 可能性のある人と、
  • それを探している人

との融合をkanOwという会社で表現していきたい。

責任や認識を高めあい、挑める「仲間」と呼べる関係を築きあえる人達と本気で喜びを感じて生きていきたい。

身体のことも、まだまだ課題はある。
頭の手術のこともあるけれど、リスクも高い。
蓄膿の菌が頭にはいると命がけになる。
蓄膿の鼻も難病認定されている。
が・・・・その難病指定で使える薬が、脳の病気と関わってどうなるかを先生が模索してくれている。


「人は死ぬためにどう生きるのか。」
そう考えるときもある。


「私の人生、めっちゃ楽しかったわ。みんなほんまにありがとう」
そう心から思えて、人生終えることができたら、どんなに幸せだろう。
そんな風に思えるようになったのも、病気のおかげ。


若いから後悔が多いのではなく、生き方。
どう生きたかが大事。
本気で若くから患っているからこそ、そう思う。


もし、今日、突然事故・・・ということがあるかもしれない。
そんなときでも「私の人生楽しかった」と思いたい。
そのために、「今日」の「今」が大事。
そんなことも病気は私に教えてくれた。
それが、今の私のカウンセリングの仕事に活かせていたりする。

だから、なまじっか無駄なことは何もない。
しんどいことがあるから受け取れる光がある。
暗闇と光はワンセット。
明るく楽しく生きていたい。
同情とかそういうのが欲しいわけではない。
もう一度、自分の人生に大きな喜びを得たい。

そこには、みんなの力が欲しい。
いろんな人の力の掛け合いで、みんなと喜べたら本当に嬉しい。
心からそう思っている。