1993年、23歳の時に第二子となる長女を出産。
この妊娠中に強い咳が出るようになる。
おなかが大きくなっていくごとに、咳は強くなっていく。
そんな中、「産めば治る」そう思っていた。
出産した日も・・・その次の日もその次の日も・・・気がつけば、毎晩強い咳で眠れなくなっていた。
それが、喘息発作とは知らなかった。
産後2ヶ月経った頃、インフルエンザにかかった時に、チアノーゼがでるような、呼吸困難で大発作。
吸っても吐けないような呼吸・・・。
意識が遠くなる・・・。
その発作が初めて恐怖になった発作。
その時、まだ長女2ヶ月。
長男2歳。
それからの人生、入退院の繰り返し。
初めのキッカケは喘息発作での入退院。
私の場合発作が出ると、ちょっとしつこい発作だった。
入退院を繰り返す中、やむを得ず、ステロイド薬を投与することに。
嘘のように喘息発作がラクになる。
でも、しばらくすると、ステロイドの副作用に苦しむように。
どんどん、精神的にもしんどくなる。
まだまだ小さい子どもたちを育てていくことができるかの不安も。
今で言う、パニック。
喘息発作が出る度、この発作で死ぬのかな・・・・と思うくらい呼吸がしんどい。
お風呂にも一人で入れない。
トイレも扉を空けていないと怖い。
部屋の真ん中にいれなくなる。
とにかく不安と怖さがおさまらない。
部屋の隅っこで、何かにもたれていないと怖い。
自分で自分のコントロールが完全に出来なくなる。
そういう精神状態になった生活に。
安定剤が手放せなくなる。
次の手術の時は、先生が
「黒田さん、手術もだいぶ進歩したんですよ」と言ってくれた。
内視鏡でできるようになった。
が、局部麻酔で片方ずつ。
私はいつも何かしらトラブルタイプ。
人間の体はすごくて、血管を自分でつくれる。
私の鼻の奥には、先生が想像もしていないところに大きな血管ができていた。
内視鏡手術時に、その血管にふれる。
お茶をゴクゴク飲んでいるかのような勢いで、血がのどに流れてくる。
血圧もどんどん下がってくる。
途中で手術が中断・・・。
ということもあった。
何か怖いことを通らないと、私の人生は上手くいかないの?
心が折れそうになる・・・。
そして、鼻が再発し、手術を繰り返す。
こんなに手術を繰り返しているのに、またすぐポリープができる。
そんな治療を繰り返しながら、数年経った頃。
全身麻酔で両鼻一気に蓄膿手術できるようになる。
手術のしんどさはかなり軽減され、入院の日数も短くなるし、医学の進歩を実感。
しかし、ガーゼ交換の辛さは相変わらず。
首から上の手術はしんどいと聞いていたけれど、何度やっても、慣れることはない。
その手術を13年の間で合計7回受ける。
民間療法の先生が私の病気を見つけてくれた。
その時に大腸がんの病気も見つかった。
初めて難病というのが、大腸がんを通して、初めて分かった。
難病は今日明日どうにかなるものではないので、まずは大腸がんの治療をすることに。
大腸がんをみつけてくれた病院に検査に。
はじめての大腸カメラ。
ポリープ4つ。
そのうち2つはそのときにとれる物だったけれど、あとの2つのポリープが大きいので手術になります。と。
そのポリープ2つの組織をとった結果、
「大腸がんです」と、がん宣告を受けた。
涙がポロポロ。。。
そこで先生に、
「先生、私・・・治る?」
と聞くと、先生が
「今はまだ初期だと思うからがんばろう!」
と答えてくれた。
心強かった。
「先生ありがとう」
となって、さぁ、今から病気に挑もう!
と気持ちが決まり、手術のための術前の検査を受ける。
術前検査の中で、麻酔科で、気道確保するための検査を受けるために、CT検査を受ける。
その際に、気管が腫瘍に圧迫されて、気道が変形していることがわかる。
空気の通り道の空洞が、その腫瘍に押されて数ミリ程度。
これ以上腫瘍に圧迫されたら、息することも大変な状態。
下手すれば窒息。
その原因が甲状腺。
甲状腺がアクロメガリーで成長してしまい、甲状腺の下にゴルフボール大ぐらいの腫瘍ができていた。
それが気道を圧迫していた。
それがわかったことで、大腸がんの手術も後回しに。
甲状腺の腫瘍の治療を優先。
幸いにも、腫瘍は良性。
ただ、この手術は大学病院でないとできないとのことで、大学病院を紹介される。
この状態が大学病院でも症例がほぼない。
検査に半年くらいかかる。
その間、大腸がんの進行も心配に。
検査をしていくにつれて、手術がたいそうになることがわかる。
手術が上手くいけば切除だけですむけれど、とれない場合は心臓を止めて、人口心肺をつけて、肋骨を割っての手術になると言われる。
人工心肺は生き延びるためのものだけれど、術後はとっても大変とのリスクを聞く。
声もあきらめてください。
声帯をきることになるかもしれません。と言われる。
もし、声帯を切ることになったら、また、先に声帯をつなげる手術をする。
それでも声は小さい声になる。
シャガレ声までしか戻らない。との説明だった。
病気もしかり。
うちの実家の裏切りもしかり。
旦那さんのこともあり、息子や娘の存在、愛情、エール。
私の病気のことを本気で心配してくれた友達やお客様。
自分しか愛せない父と姉・・・。
この色んな人たちの、良いも悪いも自分なりに体感していく中で
「自分だけの成功ありきだと楽しくないし、自分のことをホントに信じて本気で関わってきてくれる人とは、本当に喜べる方向性になるために頑張れる。」
と強く思うように。
2020年、株式会社kanOw設立時、50歳の私。
私が自分の仕事を生きがいにしていることで安心感も感じたいし、子どもたちにも感じて欲しい。
との融合をkanOwという会社で表現していきたい。
責任や認識を高めあい、挑める「仲間」と呼べる関係を築きあえる人達と本気で喜びを感じて生きていきたい。
身体のことも、まだまだ課題はある。
頭の手術のこともあるけれど、リスクも高い。
蓄膿の菌が頭にはいると命がけになる。
蓄膿の鼻も難病認定されている。
が・・・・その難病指定で使える薬が、脳の病気と関わってどうなるかを先生が模索してくれている。
「人は死ぬためにどう生きるのか。」
そう考えるときもある。
「私の人生、めっちゃ楽しかったわ。みんなほんまにありがとう」
そう心から思えて、人生終えることができたら、どんなに幸せだろう。
そんな風に思えるようになったのも、病気のおかげ。
若いから後悔が多いのではなく、生き方。
どう生きたかが大事。
本気で若くから患っているからこそ、そう思う。
もし、今日、突然事故・・・ということがあるかもしれない。
そんなときでも「私の人生楽しかった」と思いたい。
そのために、「今日」の「今」が大事。
そんなことも病気は私に教えてくれた。
それが、今の私のカウンセリングの仕事に活かせていたりする。
だから、なまじっか無駄なことは何もない。
しんどいことがあるから受け取れる光がある。
暗闇と光はワンセット。
明るく楽しく生きていたい。
同情とかそういうのが欲しいわけではない。
もう一度、自分の人生に大きな喜びを得たい。
そこには、みんなの力が欲しい。
いろんな人の力の掛け合いで、みんなと喜べたら本当に嬉しい。
心からそう思っている。